高速で回転する彼女の人生は、いつも今がベスト
口から生まれた!?三姉妹の長女
幸子さんの頭はおそらく普通の3倍か4倍のスピードで回っている。テキパキと話しながら、思考はさらに先の先へジャンプしているのだろう。クルクル変わる表情を追いながら話を聞いていると、スピードとエネルギーに圧倒される。
幸子さんは2歳からすでに幸子さんだった。募集年齢よりも一年早く、「お話がとても上手」ということで、3年保育の幼稚園の入園試験に合格してしまう。明るくよくしゃべる子どもだったので、幼稚園バスでは運転手さんに「口から生まれた子」と言われていた。3歳になると、迷子になっても名前と住所が言えたり、お遊戯会では司会をこなしたりと早熟さを発揮した。その一方で、大変そそっかしかった。大やけどをしたり、何針も縫うようなケガも数々経験し、成人するまでけがが絶えなかった。母曰く「幸子は、子どもたちの中でも一番多くの喜びを与えてくれたけれど、心配も一番多かった。」という子だったそうだ。三姉妹の長女である。大野家は共働きだったので、幸子さんは家事を分担していた。
「母が仕事をしていたので、いわゆる食材の宅配を頼んでいました。高学年になるとそれを調理してご飯を作っていましたね。ご飯は作りましたが、他は面倒見のいいお姉さんじゃなかったかな。母にはよく『お姉ちゃんらしくない!』と叱られました。買ってあったイチゴを妹の分まで食べちゃうし、すぐ下の妹とはケンカばかりしてました。大人になってからは、女兄弟ということもあり、仲良しですけどね。」
文武両道の明るい優等生
運動も勉強もよくできて、小学校では優等生で目立っていた。成績は優秀だったが、唯一「5」を取れなかったのは、1年生の一学期の「忘れ物をしない」だけ。忘れ物は少なくなかった、そそっかしいところはなかなか直らなかったようだ。
「◎◎するものこの指とまれ♪と、休み時間に遊びを決めるのはいつも私で、男子とも仲が良い活発な子でした。正義感が強くて、いじめられている子がいると、やめなさいよ!みたいな。一方で読書が好きで図書室の常連でした。小2くらいから小説を読んでいましたね。5歳くらいから本は自分で読めて、というのも両親が忙しくて読み聞かせはできなかったのですが、ひらがな表を壁に貼っておいてくれたんです。まず音で、それから文字と一致させて自力で字を覚えました。」
生まれ育ったのは福岡の宗像市で海に近い場所だった。母は教育熱心で、幼稚園の絵本配本を使って月に5冊も新しい絵本を購入してくれた。近所に英語教室ができたからと、行ってみては?とすすめてくれたのも母。聡明な幸子さんの可能性に大きな期待をよせていたのだった。なんでもできる人気者で仕切り屋さんだったが、調子にのっていた小5の時、深く反省したことが印象に残っている。
「男子が掃除をしないで、ほうきでチャンバラとかしていたんです。『お前なんかこの教室にいなくていい』とその子を机ごと教室の外へ出したら、先生に『あなたにそんなことを言う権利はありません』と叱られました。本当にそうだなと思って涙が出てきて。そうしたら先生が『涙があるってことは理解したということね』と諭してくれました。「なんでもできる」と尊大になっていたけれど、この事件から、真人間になったというか、おごってはいけないということを学びました。」
中学に入学しても優等生ライフは続く。中学ではバスケをやろうと体育会に入る。しかしここでもそそっかしさが災いする。ちょっと考えが足りず、敵を作ってしまった。
「練習のきつい部活でしたから、顧問の先生が、バスケだけじゃなく、ちゃんと勉強もしろよみたいなことを言ったんです。それぞれ成績はどうだということになって『私は学年で5番以内なので大丈夫です』黙っておけばいいものを、余計なことを言ってしまって…そういう感じもあったので『なんだこいつ!』と睨まれてしまいました。空気読めなかったんですね。それ以来先輩が怖くて、3年生が引退するまでずっとビクビク萎縮していました。万年補欠でしたし、同期の女子は10人で、県でベスト4になるくらい強豪だったので、本当に練習がきつかった。練習していて、パスするのにも気を使っていました。ミスしちゃたらどうしようとか、人の気持ちを気にしすぎて伸びなかった。運動神経は良かったのに、チームプレイには向いていなかったんですね。」
部活ではなかなか活躍の機会がなかったが、クラス委員を引き受け、生徒会に立候補したりと、それ以外では相変わらず明るいキャラを通していた。体育祭でははりきって「みんな頑張ろう!」と一致団結を呼びかけ、まとめ役として活躍。地元の宗像市がニュージーランドのオークランドと姉妹都市で、毎年交換学生を募集していたことから、中学時代に短期留学も経験している。小1から英会話をしていて、素地ができていたので、英会話の先生が推薦してくれたこともある。中2で10日間ホストファミリーのところで生活し、外国生活を体験した。一番の収穫は自分が予想外に人を惹きつける力があるかもしれないと感じたこと。
「ホストファミリー夫婦に気に入られてしまって、3泊4日すごしただけなのに、もっとホームステイをしてはどうかというんです。うちに来て何年かいれば英語の勉強にもなるしと。一緒にすごしたのは短時間だし、身振り手振りに辞書でたどたどしい会話だったのに、こんなに好意をいただけるなんて、嬉しかったですね。あまりにもご夫妻が熱心なので、母が怖がってしまって『こんなに早くこの子を手放せない』と驚いて断りました。帰国するときは、ホストファミリーのお父さんがお仕事を休んで空港まできてくれ別れを惜しむ感じで、すごく愛情を感じましたね。」
ますますリア充な学生時代
学区で一番の高校を受けた。将来どうするか決まっていなかったので、選択肢が増えるようにベストの環境に入ろうと考えた。きっと成績上位の学校は、魅力的な人が多いだろうと思ったからだ。さすがノーベル賞受賞者を輩出する名門福岡高校、入ってみると確かにレベルが高く、いつも10番以内だった成績が、最初の試験で学年の中位くらいに順位が落ちてしまった。しかし学年が上がるにつれてじわじわ成績も上がっていった。
「部活は空手部です。中学で体育会がきつかったので、文化部に入ろうと思っていたんですけれど、たまたま見学した空手部のデモンストレーションがカッコよくて。 すごく美人の女性の先輩が演武をしていたのに憧れました。また、指導してくださる方が70歳を超える先生だったのですが、『この先生に習いたい』と直感的に感じたことも決めてとなりました。」
私は小柄ですけれど、空手は柔道のように階級がない競技です。 だから、相手が170センチ以上あることもありました。そんな選手に対して、ぴょんってジャンプして突きを入れるとか、漫画みたいでした。脚力があったので、飛べましたから、敏捷性で技が入れば勝てる感じでした。」
高校から始めた競技だったが、着実に上達して成果を出していった。練習に励み、最終的には個人で県大会ベスト4にまで上り詰めた。勝ちっぱなしの青春である。
幸子さんのリア充は止まらない。高3の12月に初めての彼氏もできる。彼は読書家で博学、同級生のみならず後輩にも慕われる男性だったそうだ。彼女の心をつかんだのは、死生観についてなど哲学の話もてらいなくできる早熟な人だった。
通っていた高校には「九州大学至上主義」みたいな風潮があった。けれども「せっかく新しい環境に進むのだから、知り合いの多い環境には行きたくない」とメインの風潮に反発をおぼえ、違う道を行こうと思った。リサーチの結果、社会学を専攻しようと思い、一橋大学を志望したが、一年目はうまくいかない。付き合っていた彼は京都の大学に現役合格していて遠距離になっていたが、その翌年、合格した大阪の大学には進まず、慶応大学の文学部を選択し、上京することになった。その後彼とは遠距離のまま大学を卒業しても関係が続いていく。活発な印象とは違い、本質的に生真面目な女性なのだろう。最終的に結婚したのは別の人だが、彼女は20代半ばまでの6年以上ずっと同じ人と関係を保つ一途なところがあった。
大学では社会学コースを専攻した。バイトや学生団体での活動など大学生らしい生活を謳歌する。サークル活動は、社会的なテーマをディスカッションする団体に入り、インカレのシンポジウムなどに参加する。
「国際会というディスカッションサークルに所属しました。議論するテーマを持ち回りでファシリテーターがもってきて、途上国開発やTPP推進の是非、男女共同参画など、様々な社会問題について学生で話し合いました。そのサークルでは年に一度、全国から200名ほどの学生を集めて、二泊三日をかけてディスカッションをするイベントを開催していました。大学2年生になると、当日のイベントい参加するだけじゃなく、運営の方に回りました。分科会のテーマを企画して、模擬ディスカッションをしたり。ディスカッションの企画と並行して、企画広報みたいな活動も行なっていました。関西や中部の大学にも告知網を広げ、実際に10名ほどで手分けして地方の大学にも足を運びました。その際のスケジュールの作成や宿や交通手段の手配とか、みんなが楽しめるように自由時間も余裕をもってとか、ツアコン的に計画を立てるのも楽しかったですね。」
就活がへたくそ…やりたいことに届かないお仕事ライフ
「就職活動、一言で言ってへたくそでした。同級生は4月に大手から内定をもらっていましたが、私は決まらないんですよ。何がやりたいかターゲットも決まっていなくて。新聞社の広告局なんて面白そうかなとか、なんとなくマスコミとかその他各業界の有名なところは受けてみました。ミーハーな就活をしていた結果、6月になっても内定をもらえないダメな感じでしたね。」
ようやく内定もらったのは、中堅の広告代理店だった。面接で気に入ってもらった役員の下で大手クライアントの仕事をする予定だったが、新卒で入ってみると、全く違う部署に配属された。入札情報の登録制情報サイトの営業で、男性上司とほぼ2人ですすめる仕事だった。電話営業をしたり、上司と訪問したりして、顧客を集めるのだが、初年度で120社の新会員を集め順調だった。上司はいい人で楽しかったが、仕事にはあまり発展性がない。ずっとここにいても成長できないんじゃいかという危機感から、早朝の勉強会や就業後の交流会などに通って、人脈を広げる努力をしたそうだ。ファシリテーションにも興味があったし、週末起業などセミナーに行くこともありました。
「あるイベントで知り合った友達が紹介してくれたのが、英語の勉強会でした。そこで林(後々パートナーになるコーチの林健太郎氏)に出会ったんですよ。彼にコーチングをしてもらうことになり、仕事の相談をしていたら転職を勧められました。確かに仕事で接点のある人は、部署の部長と直属の上司だけ。これでは対人スキルが上がらないし、コミュニケーション力もつかないし、仕事の仕方が狭いママ。それにやりたい仕事でもなかった。」
社会人としての滑り出しは理想通りではなかった。でも幸子さんの中にはまだ正体の知れない使命感みたいなものがあった。高校時代、死生観について語り合ったり、哲学に興味をもったりしたこと、社会学を専攻したかった理由。ただ働いて生活するだけでは飽き足らない熱がくぐもって存在していたのだ。林さんとの出会いは、彼女が成長を求めて動いて見つけたチャンスだった。それが見えたから、林さんは幸子さんに興味をもち、コーチングを提案したのではないだろうか。
幸子さんは、もっと他の世界を知るべきというアドバイスを素直に受け、転職活動を始めた。数社の中でも興味を引かれたのが、毎週社内でクレドについて話し合いや、事業ビジョンを擦りあわせるミーティングを慣行している会社だった。
「多忙なのにわざわざ時間をとって1時間も話し合うなんて、どういう会社なのか。組織に興味を持ちました。仕事は企業のファンコミュニティの企画・運営です。社長が音頭をとって仕組みづくりをしているんですが、社員は強制されてというよりも社長の考え方に心酔して共感して参加している感じでした。例えば「誠実」がテーマだったら、この会社の文脈で誠実でいるための行動とは?みたいなことを大真面目で学級会みたいに話し合うのが面白いなと思いました。」
無事入社できたが、企画・運営アシスタントとして激務に追われ、連日帰宅は日付を超える。穏やかな前職の上司とは違い、新しい上司は厳しかった。あまりの多忙に仕事を教えてもらうのもはばかられる。先輩に余裕がないので、要領の悪い質問をすると怒られる。時間をかければなんとかできるようになったが、連日1時まで会社に残り、事務所の鍵をかけてかえる生活だった。始末書を書くこともあった。
「とにかく仕事ができなくて、目上の人への接し方や、基本的な仕事の仕方、ミスしないためにしておくべきことなど、全然わかっていなかったんです。前職では上司がカバーしてくれていたことにその時気が付きました。突然荒野に放たれた気がして。上司にも相談しましたが、自分も仕事を教わったことなどないから、自分で学びなさいと言われるばかりで、途方にくれました。それでもなんとかかんとか転びながらも一応一通りの仕事ができるようになったものの、精神的にしんどくて7か月で退職しました。」
その後、ソーシャルメディアマーケティングの会社に転職したが、入社後1年ほど経って、お付き合いをしていた林健太郎さんと、「ナンバーツー」という会社を立ち上げることになった。お二人は2016年9月に結婚。公私ともどもパートナーになった。
これがやりたかった仕事なんじゃないか?と気づいたコーチング
林さんは14歳も上の人生の先輩で、最初は仕事上のコーチだった。いつ遊びに行っても事務所にいるし、暇そうにしていることも多いので、何をしている人なのかよくわからなかったそうだ。いろいろな話をする中で、コーチングというのがどういう仕事なのか理解を深めていくうち、林さん本人への興味とともに、コーチングという仕事にも惹かれた。
「林は面倒見がいいんですよ。精神論でがんばれとか言うのではなくて、具体的にどうしたらいいか教えてくれました。営業がうまくいかないという時は、ロールプレイングでやってみたりしました。彼がお客さん役をやってくれて、実地で営業レッスンみたいなことまで。仕事をする上で、誰も教えてくれなかった対人スキルを教えてくれたり。どう行動すれば、目指す結果が得やすくなるかなど、いちいち肚落ちすることばかり。素晴らしいトレーナーでした。
社会に出るときぼんやりと、会社や組織に入っていって、そのチームの改善点を探すような仕事をしたいと思っていたことがありました。その時はそれがコーチングとか、人事コンサルタントみたいな仕事だとは知らなかったのですが、林がやっている仕事は、まさにそれ。自分がやりたかった仕事にかなり近かったこと気づいたんです。
将来自分がどうしたいかまだ見えません。今は林のビジョンを実現することに賭けようと思っています。3年か5年か10年後かもしれませんけれど、形になったらすごいと思うんです。林は『人と人が本質的なことを語り合えるようなコミュニケーション方法』 について考えています。人と人が本当に話し合うべきことを話してわかりあえれば、より信頼関係をベースとした人間関係を築けるし、争いもおこらなくなるかもしれない。そういう対話スキルが確立できるんだとしたら、すごいと思っています。」
これからしばらくはパートナーの仕事をフォローしながら、時が熟すのを待っているという。幸子さんの今のテーマは、ライフスタイルを豊かにすること、生きている中で幸せを感じる瞬間が増やすことなのだそうだ。それがいつかスキルとして確立して、他の人の役にたてばいいと思う。
「20代はやりたいことがないのが怖かった。早く将来の目標を決めないと、逆算して今すべきことがわからない。今を生きられないともがいていました。でもね、28になって、まだ目標が見つからない自分を許せるようになったんです。今ないなら、目の前で縁のある仕事をして、時を待とうと。もっと長いスパンで考えていいんだな、今は40歳くらいまでにやりたいことが見つかればいいと思っています。」
林さんとの会社「ナンバーツー」では、組織のコミュニケーションを円滑にするコーチングを主に事業を展開している。組織の長の相談に乗るほか、研修セミナーなどの企業トレーニングを実施したり、と多方面でサービスを展開する。コーチングの実務は林さんが行うが、幸子さんはマネージメントやマーケティング、広報的な仕事を請け負う、二人三脚だ。
「最近、結婚したでしょう、そういうこともあってパートナーシップについて考えているんですよ。特に夫婦のこと。そもそもパートナーとどうコミュニケーションしていけばいいのか、関係性をつむいでいけばいいのかということについて日々意識的に過ごしています。
林と私は仕事も一緒なので、真剣な話し合いが多いんです。最近コツかもしれないと思うのは、何かあったその時すぐにしっかり話し合う。面倒だからと自分の心にしまわず、蓄積させないで、その場でアウトプットする。その時に、感情的にならずに、どういうお作法で会話を始めれば、より早く本題を話せるようになるか考えています。相手を責めたいんじゃなくて、問題を解決したいわけだから、よりよい話し合いにするにはどうしたらいいのかを探っています。
もめごとをフィードバックして、反省し、アクションプランを立てながら、問題点を探り出す。自分たちを実験台にした社会実験みたいなものですね。もちろん問題を解決したいから話し合うんですが、ついでに研究もしているようなことがあります。私たちの問題だけど、普遍性があるような気がしているんです。」
その社会実験の底には、4年間の交際と観察の中で築いた相互の信頼感がある。何があっても話し合えば大丈夫、わかりあえるし、お互いの幸せを願っているという、絶対的な信頼関係があるのだそうだ。そこまでの道のりには徹底した話し合いと、向き合う姿勢があったという。
「夫婦で事業は大変じゃないですかと聞かれます。大変じゃないわけじゃないけど、問題があるなら、それをどうしたらよりよいパートナーになれるか。人によってはそれが原因で別れることもあるかもしれませんよね。でも本当は一心同体は心強い、会社が成功すれば、生活レベルでも恩恵をうけられるし、人生の伴侶として分かち合う喜びもより大きいと思います。
ちょっと面倒なのは、お互いに力がぬけない、私生活がない、仕事とオフの切れ目がないこと。世間話をしていても、ご飯食べてても、今の話すぐ仕事に生かせないか?とかなるわけですよ。私生活がすぐ仕事に結びつくから油断できない。
こうなるまで紆余曲折ありましたが、自分で選んで今ここにいることが幸せなんです。先はどうなるかわからないけれど、人生に対する主体性を失わないように働き、暮らしていけたらいいなと思います。」
にぎやかで良く笑う人だ。子ども時代から聡明で、いつも上を上を目指し、目標を達成してきたハイスペックな女性であることは間違いないが、反面とても人間的で人を蹴落としてまでトップを走ることをよしとしない正義感がある。明るい場所に向かうのならば、周囲の人の手もひいていきたい人。それを甘さと思うか、度量と感じるか、それは向き合う人次第だと思った。
(テキスト・撮影 タコショウカイ・モトカワマリコ)
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