微笑みを浮かべて闘う、穏やかなタフガイ

林さんはここ数年で人生に求めていたものをかなり手に入れてしまった。夢が叶ってみると、それは予想外にエンドロールまで行き着いた感じではなかったという。思い通りになっても満足しておしまい、というわけにはいかないのが人生なのだろうか。これまで順風満帆だったというわけではない、トライアンドエラーを繰り返し、波乱万丈の道のりを乗り越えてきた。

温和な風貌の内側にしたたかさを隠し持つセルフメイドの人である。

林少年、太平洋を往復する

中学生の頃、林さんはオリンピックを目指す水泳選手だった。水泳の名門私学に通い、ふやけるほど泳いで上を上を目指していたのだ。しかし、学年が上がると現実が見えてくる。頂点の頂点には行かれないとわかった。

「もう夏合宿に行きたくなかった、行かずに済む方法はひとつしかなかったんです。英会話の先生が企画したホームステイのプログラムに合格すること。英語は赤点すれすれだったんですけど、書類を書いたら通ってしまった。当時その先生とお祭りに行ったりして仲良くしていたので、僕を良く知っていてくれて、コミュニケーション能力を買われたらしいです。好奇心いっぱいで面白い子だって思ったそうで。」

アメリカが大好きだったわけではないが、英会話の先生の故郷だったアイオア州オセオラに2週間滞在することになった。アイオワといえば、アメリカのハートランド、日本人はおろかアジア系もほとんどいない、あまりにもアメリカンな中西部の町である。

駅に降り立ってすぐ、大所帯のホストファミリーが子どもたち共々賑やかに出迎えてくれた。

「ハローといわれてハローと応えましたけれど、あとが続かない。なんだかわからないうちにカバンを掴まれ、トランクに積まれ、誘拐みたいに車に乗せられました。言葉は何も通じない。身振り手振りと勢いでなんとか意思疎通を図る感じ。『今日の夕食はピザだよ』といわれて『TODAY わかる?PIZZAはわかる?食べ物だよ』スペルを教えてもらって辞書をひいて『ああピザね』みたいな。家族とはそんな感じで、言葉は通じないんですけど、なんとかなってしまいました。

あとは毎日英語の勉強、夏休みの校舎を借りて、英会話の先生が毎日授業をしてくれるんですよ。習ったことを家に帰って言ってみる、それの繰り返し。地元の学生との交流会とか、日本文化のイベントとか2週間はあっという間でした。」

アメリカの自由な社会に憧れ、またしても渡米

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そして運命の出会いである。たまたま遊びにいった町のプールにとんでもない美少女がいたのだ。どうやったのか憶えていないそうだが、住所を交換した。

そして日本に帰国。彼女と連絡をとるには英語で手紙を書かなくてはいけない。本をガイドに書いてみたけれど、書けないので、英会話の先生に訳してもらって、手紙を書いた。もちろん彼女だけだと恰好がつかないので、ホストファミリーにもまめに手紙を書くことになった。

「返事が来るんですよ、当然。英語だし、手書き文字は慣れないと読めないからと、また先生に読んでもらう。先生に助けてもらいながら、そんなやりとりをしているうちに、そうかそうか、そういう風に表現するのね…英作文と英文読解が実地でわかってきた。当時英語はまだまだ赤点に近かったんですけどね、じわじわ力がついてきました。そのうち国際電話をかけようと思い立って、彼女に電話をしたんですけど、言えることは限られている。会話がそれなりのスピードでできないと彼女と友達になれないじゃないかと、ECCにも通ったりして。そうやって英語の力がめきめきついて、高校生になったら日常会話くらいは通じるようになりました。」

理由はやや不純でも英語力が飛躍的についたところで、考えた。もう水泳で五輪にも出られないし、目的を失った。日本の社会で成功するには、いい学校、会社、結婚みたいなレールに乗らなくてはいけない、はみ出すと生きにくい。息苦しい。

「アメリカに行きたいと思いました。アメリカでは型にはまらない生き方ができるのではないかと。自由だから。言葉ができなくても、将来は何をしたいの、夢はなに?とかオープンクエスチョンでいろいろ聞いてもらえる。ホストファミリーにも友達にも、自分の意見を聞いてもらえる、多様性を認め合える文化に憧れていました。今から思うとそれは一種の処世術で、多様な人種が暮らす国のコミュニケーションスキルなんですよね、本当に関心があるからというよりは、相手に話をさせて、前提条件や文化が違う相手との間にとっかかりを作るテクニックとでもいうか。でもその時はみんなと同じじゃなくてもいい社会を知って、ここで暮らしたいと思ったんです。」

しかし、親は簡単に許してくれない。どうしても行くなら休学ではなく高校を中退してから行けと言われ、あっさり中退してしまった。幸い文通でつながっていたホストファミリーに相談し、なんとか理解と協力を取り付けることに成功。アイオワ州の公立高校に編入するという荒技を敢行した。いざ行ってみると自信があった英語も歯が立たない、やはり現地の高校レベルの英語は難しい。

「日常会話はなんとかなるんですけど、高校の授業にはついていけなかった。授業のカリキュラムは自分で組んで、時間割通りに先生がいる部屋に行くシステムなんですけど、次の授業がどこの教室なのかさえわからない。廊下でまごまごしていると、誰かが助けてくれて、なんとかかんとか到着する感じで。その教室で『この授業はどこの教室か教えて』と聞きながら、綱渡りで出席していました。宿題の量もすごい、20ページくらいの教科書を6科目分読まなくてはならないんですよ。無理、そんなの。夜な夜な辞書を引いてがんばったけれど、先生の話すスピードにもついていけないし。ジェファーソンって誰?南北戦争って何?みたいな情報弱者で。だいたい授業からして先生が説明しているのか、それとも討論なのか、それさえわからない。それでも数学だけはできて、持参した参考書がはまったこともあって、うまくいきました。」

そんな状態だったが、高校に配慮があり、ぎりぎり進級できる成績だった。そして奇跡の朝が来る。

「ある朝目が醒めたら、それまではノイズでしかなかったテレビのニュースの意味が入ってきた。家族の朝の会話も、突然回路が開いたように意味がわかるようになったんです。1000時間すぎると急にわかるって本当ですよ。そうかこれか!と、ついに来たなと思いました。流暢に話せるようになるまでは、もう少し時間がかかりましたが、卒業時には優等生でした。」

大変な優等生で、NASAに人材を輩出しているので有名なインディアナ州のパデュー大学の宇宙工学コースに入学できるほどだった。彼には水泳選手の他にも夢があった。フェラーリのF1デザイナーになること。それには宇宙工学を学ぶ必要がある。数学が得意だったこともあり、高校の先生と相談しながら決めた進学先だったのだが、運命の女神はここではまだ微笑まない。

キャリアは建築現場から始まった

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「バブルがはじけた頃でしたし、親の援助も期待できず、帰国するしかありませんでした。帰るけどどうする?と当時の彼女に聞いたら、ついてくるというので、彼女は観光ビザで日本にやってきました。

例のプールの美女ではないです。その子はプロムクイーンになりそうな町一番の美女でしたけれど、同級生としては面白みのある女の子ではなかった。彼女は違うタイプ、可愛い真面目な人でした。二人とも若かったから、何も考えていなかったなと思います。」

彼女は観光ビザでの入国で、長期間の滞在が難しかった。目算では英会話の先生をすれば食べられると思っていたが、それも当てが外れる。彼女と暮らすために結婚を決め、二人で生活するためには大学進学という選択はなかった。

アメリカの高校を卒業していたもののどう働いていいかわからない。林さんはやむなく建築現場の仕事を始めた。キャリアのスタートは建築現場、夢に見たフェラーリのデザイナーははるか遠いかなたに消えそうになっていた。現場では商業施設の空調を検査する仕事をしていた。空調をテスト起動して風速を測り、高層ビルなどの空調を調整する仕事だった。2年ほど続けたが、面白い仕事ではなく、辞めてしまった。意地を張る余裕がなくなり、降参。仕方なく母親の経営する印刷会社に営業マンとして入社する。

「印刷のことは何も知らずに、営業に出ていました。飛び込み営業もしたし、チラシに名刺をつけてポスティングもしました。客先に行っても、商品についてよくわからないからろくに注文もとれなかった。次第に慣れましたが、そうするとお客さんが『売れるチラシを作ってよ』というんですね。どうしたらそんなものできるんだろう?と思ったけれど、会社にそのまま持ち帰ったら『ちゃんと注文を聞いてこい』と怒られました。

しょうがなくお客さんのところに戻って『売れるチラシってなんですか?』と聞いたりしてやりとりしていると、お客も実はどうしたもんかわかっていない。一緒に考えてよ、みたいなことで、仕事をおぼえました。一口に言っても『売れるチラシ』の意味は『問い合わせがすぐ来る』『来店客が増える』とか人によって多様な方向性がある。ニーズをさぐり、それをひも解くことがいい商売になるってことにこの時気が付きました。」

印刷会社の営業マン→水泳コーチ→英会話講師→国連関係NGO→有名メーカーの営業マン→ベンチャー社長→商社マン→メーカー支社長→コーチ

英語でも営業ノウハウでも実地でマスターするタイプなのだ。数年そこで営業修行をしながら、合間に英語の教師をしたり、水泳のコーチをしながら、やりたい仕事を目指す。バイリンガルな仕事がしたい、国際的な活躍をしたい、商社マンになりたい、一部上場企業で仕事がしたい…20代は苦労しながら、やりたいことリストをクリアしていく時代だった。

短期間だったが国連関係のNGOの仕事をしたこともあった。途上国関係の仕事で、アフリカ諸国の大統領や大臣クラスとやりとりしたり、公的な書類を作る経験を積むことができ、いわゆるグローバルなビジネスに通用する英語をマスターすることができた。さらに英語で交渉するスキルもしっかり身につき、その後のキャリアを築く大きなステップになった

「英語のスキルが安定したので、大手玩具メーカーの子会社に派遣で就職しました。新事業がうまくいったら社員になれるような条件でしたが、うまくいかずクビが決まってしまったのですが、当時の上司に窮状を訴えたら、英語ができるならと、本社に紹介してもらいました。無事に入社が決まり、海外メーカーとの合弁事業部でミニカーを売ることになったんです。フェラーリが大好きだから、ミニカーいいなあと思って。ミニカーって自動車メーカーに版権の許諾をもらって生産するので、いつかフェラーリ社に行けるかもしれないと思いました。」

そこでは一部上場企業での仕事の仕方を叩き込まれた。根回しや稟議、予算の通し方、企画書の書き方やプレゼンテーションなどのテクニックを身に着ける。ところが不運にも事業部がなくなることになる。そこで、付き合いのあった同業他社に転職した。大人向けのミニカーを扱う会社で、海外営業として自動車会社各社や、生産地などを飛んで回り、版権交渉などを担当することになった。もちろんイタリアにも行き、ついに夢のフェラーリ社とも仕事で関わりを持つことになる。

「イタリアのフェラーリ本社の周りにはお土産物屋さんがあって、ミニカーとかいろんなメーカーのライセンスグッズを売っているんですけど、その中にくたくたした人形とか、ペンケースを売っているブランドがあったんです。フェラーリもよくOKしたなっていうユニークなデザインで。これ日本にはないな、日本で売れないかな?と思って交渉してみたら、そのドイツのメーカーの日本での代理店契約が取れてしまいました。」

初めての独立は海外メーカーのライセンスグッズ代理店から始まった。実はそれはあまりうまくいかず、今度は商社マンに転身する。商社に勤めていたのだが、今度はドイツの会社が本格的な日本進出をすることになり、再度声がかかった。

「日本の商社をやめ、ドイツのメーカーの日本支社の責任者として仕事が始まりました。取扱店からいったん在庫を引き上げて、出店用のプロモーションをし、展示会に商品を出すなど、ゼロからの立ち上げを半年でかつ超低予算で仕切る仕事です。銀座のフラグショップ立ち上げまではがんばりましたけれど、マネージメントなど慣れないことがうまくいかず、うつ病になってしまいました。その頃はアメリカから連れてきた人とは離婚していて、別の女性と再婚していて、生活しなくてはならない、稼ぎはない…社会の底辺に落ちた感じがしました。」

コーチってなんだ?天職との不機嫌な出会い

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底辺からの復活を助けてくれたのが、数年前から相談していたコーチ、アンソニーだった。最初の独立事業の挫折の時に知人の紹介で知り合った人だったが、最初はコーチだということがわからなかった。仕事を紹介してくれる人だと思って会ったのだが、どうも様子がおかしい。

「夢はなんだとか、最近どうかとか、一向に仕事の話が出てこないからおかしいなあと思っていたら、コーチングのプロだというんです。セッションしてあげようといって、夢はなんだというので、フェラーリが欲しいとか、クルーザーが欲しいとか、モナコに住みたいとか言っていたら、『君の夢ってお金があればみんな叶うね、人生は金、って感じだね。もしセッションを続けたければ連絡して』と言うんです。ふざけんな!失礼な奴だと最初は頭に来たのですが、渋谷の駅に向かう坂道を下りながら、本当に彼の言う通りだ。このままいくと、物欲にドライブされてうまくいかない寂しい人生になってしまう、自分を変えなくてはいけない、と思うようになりました。」

まだ30代前半、やり直しは十分できる年齢である。運命の出会いがあったその場所が、今回インタビューのために選んだ渋谷の東急セルリアンタワーホテル2Fにあるカフェ、「座忘」だったんだそうだ。その後コーチングに助けられ、半年近く毒を吐いたのちに、もしかしたら自分の不運はすべて社会が悪いというのは思い込みで、自分の行動を変えれば解決するんじゃないかと気づくようになった。コーチと話し合って、合意したことを職場でやってみる、関係が変わるという経験を経て、コーチングの効果を実感していった。

「その頃ドイツのメーカーの仕事もなくなって、この際自分もコーチになったらどうだろうかと相談したんです。自分が売上を上げるよりも、スタッフが学ぶとか、喜んでいると、グッとくるな、嬉しいと思うなあと思い至り、向いているじゃないかと思ったからです。アンソニーは賛成してくれたけれど、本気だったというより、コーチとしてだったんでしょうね。でもその時は敢えて真に受けましたが。」

コーチという新しい目的をもって海外のコーチングスクールに入学し、超高速で資格を手に入れた。アンソニーの教えとしては「学びに使ったお金は必ず回収せよ」というのがあったので、すぐにコーチの仕事を始めたが、生活費はまだ稼げないので広告営業の仕事をして食いつなぐ。夜や空き時間に知り合いや友達からコーチの仕事を広げていった。

「引き続きアンソニーからコーチングを受けながら、自分のコーチとしての戦略を立てていきました。学校では基本しか教えてくれないので、この時実地で学んだことが今に生きています。最初は無料でしたが、セミナーやイベントや勉強会に出て、知り合いを増やしながら、見込み顧客を増やしていきました。」

10件くらい経験すると、それなりのアウトプットができるようになり、信頼してくれる顧客も増えていき、ビジネスが回りだした。コーチの仕事は文字通りスポーツのパーソナルトレーナーのようなものだと言う。個人のコーチングの他、企業などのトレーニングやセミナーの仕事が収入の下支えとなっている。コーチの業界ではほとんどの場合がそういうスタイルで仕事をすすめているのだそうだ。

「最近の試練は2011年の東日本大震災でした。見込み顧客との商談も一時期ストップしてしまって、そこまで積み上げてきた仕事が止まりました。その年の後半はむしろ活況になりましたが、これを乗り越えられたかどうか、コーチングを仕事にする人間の試金石みたいなことになりました。」

大変な時期もある、浮き沈みの多い仕事だが、ようやく天職と思える仕事に出会えたことで人生は大きく好転していった。

一人じゃないって楽しい!?

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2012年さらに大きな転機がくる。今のパートナー幸子さんに出会ったのもこの年の春だった。林さんはアメリカ人の最初の妻の次にもう一人別の女性とも離婚をしていて、しばらく静かに生きようと思っていがのだが、幸子さんは強烈な勢いで、固く閉まっていた扉を開けてしまったようだ。

これまで付き合った女性とは違うタイプだった。やがて仕事上もパートナーとして組み、コーチングの事業を「NO.2」という社名で法人化。ともに会社を育てながら、まさに富める時も貧しいときもともに歩んでいける相棒を得たことで、コーチングの仕事にも変化が表れてきた。

「コーチの仕事の他、内外の企業からの依頼でトレーニングや講習の企画をしていますが、最近は企業のトップから『社員の経営マインドが育たないけれど、どうしたらいいか?』というような依頼があります。人事コンサル的なそういう依頼があると、クライアントの会社に出向き、施策をして原因を探します。時には社内のデスクに一日座って社員を観察していることもあります。なぜ育たないか、それには何か原因がある、そういうことを観察から割り出す洞察力が、僕の強みですね。

最近そういう仕事に特化されてきた気もしています。ほら、『売れるチラシを作ってくれ』というオーダーと同じですよ。『売れないのはチラシのせいですか?それとも他に何か要因があるんじゃないですか?一緒に考えましょう』若いときに手に入れたビジネスの種をこれまで紆余曲折の内で育ててきたんですね、今はそれで独立して仕事をしている、ついにフェラーリも買ったんです。なんだか人生って面白いと思いませんか?」

将来の展望について聞くと「それはまた次回」と林さん。今温めている計画があって、これからは事業としての成功だけではなく、コーチングのスキルを使ってもっと社会に還元できるようなプロジェクトを進めていきたいのだとか。準備が整ったらぜひまたタコショウカイでお話しを聞かせていただきたい。そうそう、一度はどん底生活をしていた林さんが、ついに夢の真っ赤なフェラーリを買った経緯も今度ぜひ。