もう、がんばりすぎない。

心のままに書き、人とつながりたい。

 

書家の新井結加里さんは、今長野に住んでいる。ごく最近、標高1200メートルの高原の森に家を買って、移住したのだ。しかし、ことの始まりは、埼玉県の浦和、そこでインタビューは、浦和時代によく初詣に行った神社から始めることになった。地元の氷川神社は、小高い丘の上にあり、狛犬ならぬ狛キジが鳥居を守っている。近所の人が通りがかり、鳥居を見上げる階段の下でパンパンと手を合わせていく。地元の神社、日常の信心を集める場所。結加里さんは、写真を撮られることに慣れていないのか、笑顔がちょっと硬い。

「去年の12月に離婚したんですけど、最近ようやく笑えるようになったんです。先週、長野に引っ越したばかりで、本格的に長野での新生活が始まる前に、幼稚園の卒園式のために戻ってきました。」

これから二人の子どもを育てながら、シングルマザーとして生きていくのだという。出身は群馬県太田市だというのだが、どうして長野へ?

田舎で子育てするために地方に移住する人が増えていますよね。最初、私たちもそういう子育て夫婦だったんですよ。移住先を縁もゆかりもない長野にしたのは、子どもの希望です。6歳ですが、時々大人がびっくりするようなことを言う子で。」  

 

子育てを長野で!移住計画で浮き彫りになった家族問題

子育てと仕事で苦しかった時代に書いたという書、今見ても、当時の気持ちがよみがえるという。

数年前のゴールデンウィーク、長男のリクエストで長野県を母子で旅した。それを機に、長男がどうしても長野に引っ越したいと言い出す。あまりの「長野押し」に驚いて、いろいろ調べてみると、母としても興味を惹かれることがたくさんあった。例えば長野県の佐久穂町には、自由で自然に親しむ教育方針の「森のようちえん」があり、個性・主体性を尊重したオランダの「イエナ・プラン教育」を日本で初めて取り入れた私立校が開校するなど、気になる情報が次々と出てくる。前々から子育ては自然が豊かな土地でと思っていたし、子どもの教育については、特に考えていることがあった。ピンときた結加里さんは、まもなく移住に向けて活動を開始。 行動力には自信があるのだが、小さな子どもを二人も抱え、家族での移住を実現するには相当なエネルギーがいる。夫婦で力を合わせて、移住先に生活基盤やネットワークを築かなくてはならない。漠然とした夢が、目標に変わったところで、それまではやりすごせた夫の言動に違和感を覚えてしまった。

「夫も、移住には賛成だったんですが、目的に向かって動くという段になって、決定的に合わないことがわかってしまいました。彼は役者でしたが、プロとして演劇で生活ができるわけではなかった。子どもが生まれてから、彼も生活のために別の仕事を選び、正社員になって働き始めたんですが、仕事が忙しすぎて、心のバランスを崩していました。愛情豊かなパパだけど、二人の子どもの将来や生活に責任を持つことは、優しすぎる彼には重荷だったのかもしれません。」

話し合った末、長野移住を機に、夫と別れ、子どもと3人で新生活を始めることになったのは、そういう事情だった。

教育者になろうと思った少女時代

高校は群馬県の進学校だった。「一番以外は価値がない」という厳しい父が君臨する家庭に、両親と弟、祖母と暮らしていた。親の期待に応えたくて、運動も勉強も、トップを目指して猛烈に努力した。

「努力すればなんでもできる、できるまで精一杯がんばるべきだと思っていました。でも、世の中にはとんでもない天才がいて、私の努力を軽々と越えて結果を出していくんです。そういう人にはかなわない。なかなか一番になれなくて、悔しい思いをしました。祖母もとても厳しい人で、自分を犠牲にしても、人のために働きなさい、自分の意見と合わない人は悪という強烈な性格でした。影が薄く、いつも祖母に怒られている母はだめな人間なのだと、娘の私まで思い込んでいたように思います。」

トップランナーとして休む間もない学生時代の結加里さんは、あるとき保健体育の先生に安らぎを覚える。

「『個性を大事にしなさい』といつも言っている先生で、みんなと同じじゃないこと、一人だけ違うことをする子がいても、『それもいいよね』 と違うなりに認めてくれたんです。私は突飛なことを言ってしまうことがあったんですけど、受けてとめてくれたんです。」

氷川神社の境内、早春だったが、桜の気配があふれていた。春には花見の名所にもなる。

先生は結加里さんを批判せず、受け入れてくれた。家ではいつもダメだダメだと言われていたので、ありのままを認めてもらえたのがとても嬉しかった。その先生が大好きになり、人に寄り添い、支え育てる仕事が憧れになり、歴史の教師を志した。高校を卒業し、進学先の大学は自宅から通学できる県内の国公立大学を選ぶ。ところが入ってみると教職課程がない。

「高崎経済大学は単科大学だったのですが、地域政策学部が新設されて、そこに入学してみたら、教職がなくて。教師になろうと思っていたのに、あきらめることになりました。行政を学ぶ学部なので、在学中には、自治体での実習もあったんですが、やってみて役所の仕事は合わないなと思っていました。安定した仕事ですが、チャレンジングな職場ではないので、面白いと思えませんでした。」

教師という目的を失った。専攻した学部のゴールは、自分の将来として違和感もある。独立心が強い結加里さんは、学費も自分で賄い、自活もしていた。進学前に母が家を出てしまい、実家にいるのが辛くなっていたこともあり、ついに自分も家を出てしまった。しかし、卒業後は方向が定まらず、生活のために派遣で働いた。一つの職場に決めず、場数を踏めばどこかにぴったりな仕事があるだろうと思っていたそうだ。  

流転する20代、居場所をさがしていた

浦和の仲間が集まるバー REVELSTOKE

20代後半は、ふるさとを離れ、派遣社員をしながら、自分の居場所を探していた。見つけた場所のひとつが浦和のスコッチバー「Bar Revelstoke(レベルストック)」だ。偶然このバーのバーテンダーと知り合い、お店に通うようになる。ずっとお酒は呑めないと思っていた彼女だが、ウィスキーの味わい方を教えてもらったり、バーでは新しい人間関係がつながりができたり。店に通うにつれ、今まで知らなかった大人の世界が広がっていくのを感じた。その後、店で知り合った個性的な常連さんたちからは、書道教室を開き、子どもたちを育てた家探しや、書道ビジネス、移住がらみの事々で有形無形の恩恵を受けているのだそうだ。マニアックで話好きなマスターは、スコッチ愛が止まらない。常連客と、おいしいウイスキーを嗜みながら、知的な会話を楽しむほどよい距離感。そうしてバーで知り合った浦和界隈の人たちとは次第に仲間になり、それが今の結加里さんの財産になっている。 そしてもう一つが、当時、新進気鋭の書家、武田双雲氏との出会いだった。

「仕事帰りに本屋に行ったら、双雲さんの本が目に飛び込んできて。趣味の本ではなくて、書を通した自己啓発の本だったのですが、読んでみて、これだ!と思いました。 子どもの頃から字を書くのが大好きで、書道も習いましたが、先生に直されるのが辛かった。お手本通りに書かなくてはならないのが、嫌でたまらなかった。家で否定されすぎて、他人に批判されることに耐えられなかったんです。これ以上誰にも『ダメ』と言われたくなかった。武田双雲さんの本を読んで、こんなに自由な書もあるんだな、と思ったら嬉しくなってしまって。この人に師事したいと思いました。そこで、試しに当時流行っていたSNS『ミクシィ』で検索してみたら、お友達になれてしまったんです。」

当時としては、まだそう著名ではなかった書家「武田双雲」とミク友になってしまった。しかし教室は「江の島」現実には遠すぎて通えない。するとミクシィのつながりで、双雲氏の弟、武田双龍氏と知り合った。

「当時双龍氏は大学生でした。卒業して書家になる決心がつかないという彼を励まして、ミクシィのオフ会としてファンを集めたパーティを企画して、独立を応援しました。いよいよ心を決めて、双龍氏は東京で教室を開くことになり、私は弟子として、入門することになりました。」

結加里さんは、さっそく書家として教室を開いた若師匠に入門した。子どものころから字を書きたい、書をやりたいと思っていた気持ちが、たまりにたまっていたこともあり、仕事の合間に熱心に練習をし、夢中になって修行した。めきめきと頭角を現し、異例なことに、経験ゼロから5年で師範を取ってしまったのだ。

「最初はそんなにすぐ師範をとる気はなかったし、先生をするにしても、老後の楽しみでのんびりやろうと思っていました。でもそうはいかない事情もあって、師範をとるなり、浦和に武田家の流派『ふたば書道会』の支部として教室を開くことになりました。」

そうはいかない事情というのは、生活だった。書道修行と並行して結婚し、まもなく子どもを授かる。妊娠出産の時期に派遣の仕事は終了していた。夫の収入は安定しない。新生児を抱えて、生活費が必要だったが、仕事を再開しようにも、子連れでは自由が利かない。

「そんな時、妊娠中から受け続けていた師範試験に『三度目の正直!これでダメなら諦めよう』という気持ちで受けてみたら、幸運にも合格したので、これだと思いました。」

生活のために書道教室を開く広さがあり、子育てができる家も、バーの常連だった不動産屋さんの口添えで見つかった。それまでの人のご縁が自然に結びつき、今の結加里さんのベースになるライフスタイルが形を成してくる。

ニュービジネス大賞のファイナリストに

書道の師範というのは、主婦が趣味や余技でやる人が多く、教室を開く人がいても、配偶者控除の範囲内でなどで、生活のためにやろうという人は多くはなかった。派遣の代替えになるような稼げる書道教室にするにはどうしたらいいか、参考になる例が少なかった。

「稼がなくてはならないので、どこかでビジネスの専門家に相談したいと思ったんですけど、そうしたら『さいたま市ニュービジネス大賞』という起業コンテストを見つけました。2次審査まで残ると、コンサルタントが相談にのってくれるというので、応募してみたんです。結局、ファイナリストまで残って・・・一番にはならなかったんですが(笑)。ここで知り合った起業仲間とは、今もビジネスの相談をしたり、助け合ったりするいい友人になっています。それぞれが自分で動いて、仕事を成功させようと、がんばっている人たちで、とても頼りになります。」

浦和時代に書道教室をしていた家、子育ての思い出がつまっている我が家でもあった。

事業経験がないにもかかわらず、結加里さんは、天性のセンスで、個人事業では資本より重要な人的ネットワークを築くことに成功している。目標を達成するために、現実的なアプローチを選び、結果を出していく手腕と行動力、実業の才があるということは明らかだ。ちなみに、ファイナリストになったプランというのは・・・?

 

「さいたま市は待機児童も多く、お母さんが何か習おうとしても、お稽古中の子どもの預け先が見つかりません。そんな時、たまたま私のプライベートのブログに興味を持ってくれた方でコンタクトを取ってくれた人がいました。話してみたら、その方は実務経験のある保育士さんで、彼女が『2人か3人は保育できる』というので、お稽古にくる人の子どもも預かることにしたんです。すでに実施していることを、事業プレゼンとして『託児付きの書道教室』として提案しました。

ただ、よく考えてみると、私がやりたのは、託児付き教室ではなく、多様なスタイルを選んで書道を学べる場の提案だったなと、後で軌道修正をしました。託児付きのプランは、実際にやっていることでもあったので、その中の一例として、説得力があったとは思います。

実際、いい線行きましたしね。赤ちゃんがいても書道を習いたい母親に好評で、生徒さんが集まりました。書道って静かなところで集中してやるものと思い込んでいる人が多いけれど、ママはそんなこと望めない。子どもがいて賑やかな場所でも、書はできる。書きたい人がいるなら、書ける場を作ろう、それが言いたかったんですよね。」

書は自分を見つける方法、こもれび書道クラブ

書道教室は最大で40人の生徒さんがいたこともあった。しかし同時進行で長野移住を決めてしまい、教室は散会せざるを得ない。それと同時に、武田双龍の一派からも抜けることに決めた。書道の方でも、自分の中でリセットをかけたくなったからだ。実は開業以前から流派の流れのほかに、小さな教室も運営していた。「ふたば書道会の浦和の支部」はたたんでしまったが、結加里さん個人についているお弟子さんのために、これからも時々浦和でお教室を開く予定だ。

こもれび書道クラブという会で、最初は個人的な友人たちに教えていました。双龍先生の流れとは別に、その時に来た人が書きたいものを書く自由な会を同時運営していました。年賀状とか、日本酒のラベルとか、名前とか、生徒さんがやりたいことをやる気ままな会です。 『こもれび』は、遠くに見えている光のほうへ、みんなで今暗いところから歩んでいこう、というような名前なんです。遠くに見える明るいところって、その人の理想みたいなものですね。書を通して、人の自己実現の役に立ちたいと思って付けた名前なんです。」

書道、というと伝統的なお稽古事、伝承された型がある世界だ。こうあるべきという道があり、逸れてしまっては権威に評価されない。しかし結加里さんは、書は型がピラミッドの頂点ではなく、自由に心を表わし、己を知るための精神修養のようにとらえている。

書家、新井結加里のこだわり 「書に興味をもって、やってみたいと思う方は、表現を必要としている方が多いような気がします。なぜか心にもやもやを抱えている方が多い気がするんです。教えることのやりがいっていうのは、書を通して、その方の課題を一緒に見つけ、ひとつひとつ整理していけることかもしれません。書には、そのときのその人が出るから、書について何か指摘すると、その方の悩みに行き当たったりすることも少なくない。教えていると、その方その方が、書を書くことで、自分の内面に気づいて、乗り越えていく姿をそばで見守ることができる。書は、字を書いているんだけれど、心の動きも書いているから。生徒さんの心に共感できた、つながったと思うと、とっても嬉しいし、先生冥利につきます。   キレイに書けなくてもいいんです。字が汚いと思っている人って、それがコンプレックスになっているんですけど、伝えたい言葉があって、一所懸命に書くなら、どんな字でも個性です。私はそれが一番大事だと思う。洗練されているとか、技巧的に優れているとか、そんなことは大した問題じゃない。技能があっても心がない字は空虚です。もちろん、技術は大事、表現したいことによっては技術が必要なこともある。それこそ、師範の私と一緒に探していけばいい。お手本はあるけれど、その人なりの字が書ければいいと思います。」

森の書道教室、開校!

長野での書道ビジネスはこれからの話だ、佐久穂町でのイベントや、自治体の施設などで、少しずつ始まって入る。しかし、浦和でつながった仲間との絆は失いたくない。佐久穂町に拠点を置きながら、さいたま市や、都内で単発の講座を開き、複数拠点で、いくつかの流れを同時に進めていくつもりだそうだ。 長野でのきっかけづくりとして、「写経講座」にも意欲的だ。自然豊かな森で、写経することで、少しだけ日常を離れて書に集中し、瞑想のような時間をすごしてもらうことを念頭に置いている。

「子どもの頃からの癖で、なんでも全力投球してしまう自分がいるんですが、頑張りすぎて空回りしてしまうのはもうやめ。山に囲まれた場所で、子どもたちとすごしながら、スローダウンしたい。周りの人の期待に振り回されないように、適度な距離を置いて、自分のペースで、自分の考えで、自分のために生きていきたい。 少なくともしばらくは、親子3人で食べていければいいと思っています。最初は、そんなに裕福ではないかもしれないけど、自由に生きていきたいんです。そのために大きな決心をして、生活を整理して、長野に飛んだんですから。」

新井結加里さんのWEBSITE: https://ameblo.jp/komorebi-syodo/

 

【インタビュー後記】
これから親子さん3人水入らず、緑あふれる長野の森での暮らしが始まる。母子が夢に見たように、子どもたちは毎日元気に野山を飛び回り、自然の中で大きくなるのだ。子育ても生活もこれからが本番だ。シングルマザーとして責任は重いが、結加里さんは、これまでどんな場面でも、しかるべきタイミングで手を打ち、着実に前に進んできた。動き続けている限り、人にも出会い、チャンスが来る。運は天から降ってくるものではなく、決してあきらめない人のところに、人の縁を介して巡ってくるものだからだ。母として、書を通して、地域の人たちとつながり、彼女らしく世界を広げていくのだろうと思った。