人を喜ばせる仕事がしたい。

でも今は焦らず、少しずつ前進中のワーキングママ。

インタビューに指定された場所は都心のホテル。一流ホテルのラウンジが大好きだという由華さんの話はここから始まる。ラウンジは45階、フロアに出ると明るく視界がひらけた。光が注ぐ大きな窓、高い天井、なんとも開放的だ。隣席の話が気にならない贅沢なレイアウトもくつろげる。ふっと甘い花の香りがする。

「いい香りがしますね。居るだけでいい気分になりますよね。私、こういうホテルのラウンジが好きなんです。ゆったりしていて、生活感がなくて、スタッフもきちんと丁寧に応対してくれるし、ここまでホスピタリティの行き届いた場所ってそんなにないでしょう。やっぱりホテルは違うなあ、裏切らないなあって思って。」

ニューヨークで働いていた。ワシントンDCの大学院を卒業後、国際連合本部で緒方貞子氏がアマルティア・セン氏と共同議長を務める人間の安全保障委員会の事務局の仕事をすることになり、データベース作成などに加え、会議のたびに世界から集まるVIPのためのロジ手配(宿や交通手段などの庶務業務)を担当していた。

「仕事柄一流ホテルにはよく出入りしていました。一流の流儀というのは素晴らしいですよね。私はホスピタリティに関する仕事が気になるんです。自分がやっていた仕事でも、心を込めて準備して喜んでいただけると、とっても幸せで充実していました。人をもてなすことが本当に好きなんでしょうね。」

ニューヨークの国連本部には、優秀な人材が世界中からやってきて仕事をしている。中には桁外れに裕福な家庭で育った人もいて、職場ではわからないが、母国の実家は「城」みたいな人とも知り合った。由華さんはここでの人付き合いの中で、日本で普通に生活していたら縁がないような、セレブ御用達の食や芸術、ホスピタリティのあり方などを学ぶ機会にも恵まれた。そういった本物体験は、のちに夫になりビジネスパートナーにもなる後藤さんとの出会いから展開するワイン事業にも大いに役立つことになる。セレブに限らず、アメリカ時代の友人関係には幅があり、今でも友情は健在。世界中に散らばり、人種や国籍、宗教や仕事も多様な自分ネットワークが、由華さんの強みであり財産なのだ。

薬局の看板娘

そんな由華さんが生まれたのは、基地の町横須賀。そこで薬局を営む両親の長女としてすくすくと育った。お店と住居が同じ建物にあったこともあり、小さいころからお店に出て「お仕事」をしていた。ドリンク剤を冷蔵庫に並べたり、薬棚を掃除したりするのが大好きな働き者、ご近所でも評判のお利口な看板娘だったようだ。

「大きくなったら薬局を継ぐんだろうと思っていました。幼稚園のころからお店を手伝っていましたが、一番好きだったのは、雰囲気です。町の薬局なので、ちょっとした病気や美容の相談にも気軽に寄れるお店で、ご近所の方々でにぎわっていましたね。漢方相談もしていたので、ご近所のみなさんの日頃の悩みを解決できたり、ダイレクトに人の役に立ついい仕事だなと思いました。そのうち自分も漢方の勉強を始めたりしていましたね。

学生時代を通じて実家を手伝っていましたが、調剤薬局もやっていたので、近所の大きな総合病院の患者さんもいらっしゃるんですよ。大病されて長く病院に通われているような方が、最初はとっても辛そうだったのが、だんだん回復されていく姿を見守ったりしているところもあって、世の中にためになっている実感がありました。」

アメリカに行きたい!

米軍基地の町だったので、小さいころから英語が好きだった由華さんは基地のアメリカ人に英語を習っていた。教材を用意する律儀な人もいたが、子どものバスケットボールの試合に付き合わされて、ただおしゃべりをする英会話レッスンもあって、日常的な生きた英語を身に着けることにもなったそうだ。とはいえ、まだまだアメリカに行こうとまでは思わなかった。

「中学の時、クラスメートが急に親の仕事の都合でアメリカに行くことになったんです。そうしたら取り残されたみたいで悔しくて、自分がアメリカに憧れていたことに気が付きました。それで国際結婚している親戚がいたのを思い出して、父に相談して、遊びに行くことになりました。」

高1の春、2週間の間カルフォルニア住まいの親戚の家に一人で遊びに行った。初めての外国、はじめてのアメリカに胸が高鳴ったが、基地で習っていた英語はまるで通じない。3歳と5歳のいとこたちよりも下手くそだったそうだ。しかし言葉よりカルチャーショックが大きかった。

「いとこが道で転んで、私がそれを見て「大丈夫?」といいながら軽く笑ったことがありました。日本では大したことなさそうだと、雰囲気を和ませるために『大丈夫?』って笑うでしょう?そうしたらお姉ちゃんの方が『なんで痛い思いをしている人を笑うの!』って怒るんですよ。へえ、感じ方が違うんだなあと思いました。親子関係にしても、スキンシップが多いし、子どもをハニーとか呼ぶんですよね。でも突き放すところは突き放す。日本とは親子の関係がずいぶん違うんだなあって、思いました。その他にも日本で当たり前だったことが、覆されることがたくさんあって、考え方の多様性に圧倒されてしまいました。もうちょっとアメリカで暮らしてみたいなと思うようになったんです。」

帰国後、進路を考える時期になって、アメリカ旅行の時から考えていた国際的な仕事をしたいと思うようになる。そこでCAも念頭において、英語に定評のある大学の国際社会学部の国際政治学科に進学する。

選抜理由は、なんかタフそうだから!?

大学では3年生で交換留学生の選抜があった。自覚的に抜群の成績、というわけではなかったので、あまり自信がなかったが、2人枠の一人に選ばれた。選抜の理由はタフそうだから。アメリカの大学でも元気に負けずに何かを学び取って帰ってきそうだから、ということ。

「カルフォルニアの大学に留学しました。念願のアメリカ生活が叶って楽しくてしょうがなかったんですけど、入った寮があまり合わなくて。ルームメイトとうまくいかなかったんです。でも規定で、寮を出るには医師の診断書がいるらしい。たまたまひどい口内炎ができて、歯医者に行ったんですけど、そこで原因はストレスです…みたいな診断書を書いてもらって、まんまと寮を出ました。その時仲良くしていたイタリア人の友達に手伝ってもらって新居を探していたんだけど、だったら一緒に住もうと誘われて。男性なんですけどね。」

思わず乗り出してしまうわけだが、彼はゲイ。留学期間中お母さんは、由華さんが心配で3か月ごとにアメリカに来ていた。そこで彼と母は面識もあり、女一人で住むより安心だし、彼なら最良のルームメイトではないかということになった。初めての留学、初めての一人暮らし、いきなり外国人のルームメイト、しかも男性。生活の面でも、新しいことばかりだった。そんな彼によく言われたのは言葉の大切さ。

「思っていることは、言葉にしないと伝わらない。言わない意見は存在しないのと同じだよ、と言われました。国や人種、育った文化が違う相手とは、わかりあおうと努力しないと何も伝わらない。逆に言えば、とことん話し合えば分かり合えるんだな、ということもずいぶん学びました。」

世界情勢を情報発信する仕事がしたい

留学していた時期にちょうどアジアの金融危機がおこり、周囲のアジア人学生の中にはすぐ帰国しなければならないかもしれない人もいて緊迫していたが、同じアジア人でも自分には影響がないのはなぜだろうと思うようになった。留学から戻ってみると、日本ではアメリカほどには海外のニュースが頻繁に流れないことも気になった。就職を考える時期になり、それなら自分がニュースキャスターになって、自分が情報を発信したいと思うようになった。アナウンサーの学校に通って努力してみたが、あまり向いていない。面接もさんざんで、日本のメディアでは、由華さんみたいなタイプの女性にはキャスターとしてのニーズがないことを知る。それではと、子どもの頃からの夢でもあるフライトアテンダントになろうと就職部に相談したが、「あなたには向いていないから」と止められてしまう。思いついたら動いてみる、周囲に働きかける行動力は由華さんの長所だが、このころはなんだか先を焦っていて、本当には何がしたいのか、自分でもわからなくなっていたのだそうだ。

「薬局の手伝いや、アメリカで見聞きしたことに触発されて、人の役に立ちたいと思っていたんです。漠然とした正義感がみなぎっていたんだと思います。それなら国連か、と思いました。国連は最低でも大学院を出ていないと職を得るのは難しいので、やっぱりアメリカで修士号を取得しなきゃと思い、大学の教授たちの力を借りて、がむしゃらに勉強しました。」

大学の教授たちも、親も、実は由華さん自身も信じられないことだったが、無理だと思っていたワシントンDCの国際関係大学院の国際保健衛生プログラムに合格してしまったのだ。両親は海外の大学院に進学したい、国連に勤めたい、世界のために働くのだという娘に驚いてはいたが、何も言わずに応援してくれた。大学院時代は、ひたすら論文を書き、国際関係のNGOでインターンをし、多様な友人たちと友情をはぐくむ、多忙な日々だった。

「知り合う人はそれぞれ宗教や文化的背景が全然違うんです。アメリカは人種のるつぼだし、世界中から国際関係を学びに来る学友たちもいますから、多様なのは当たり前、それを踏まえて違いを受け入れれば理解しあえる、という実感ができました。家族を愛する気持ちとか、心の温かさはどんな人の心にもある。わかりあえないことはない、そういう心意気を学べたのが良かった。」

9.11がおこり、ワシントンDCも安全ではなかったし、全土に緊張感のある危機的な雰囲気が続いていた。大学院を卒業するにあたってDCで仕事を探したが、就職先はNGOしかない。NGOでも社会貢献はできるが、給料が少ないので、大金をかけてもらった親の恩に報いない気がするし、自分が困っていて人など助けられないのではという疑問もあった。

人生を変える出会い×2

万事休すだ。就職浪人中の由華さんを日本にいる両親はだまって見守ってくれたが、あきらめて帰国し、中国漢方を勉強しなおして、薬局を手伝おうかと思っていた矢先、予想外の方向から夢の仕事が降ってくる。

NGOや国際機関でのインタビューを重ねるうちに、保健衛生、教育援助、経済開発という個別のセクター同士の連携が取りにくい現状を知り、「経済学者の言葉がわかる保健衛生専門家」のように横の連携が取れる人材が必要なのではないかと考えるようになる。

「あるとき、国連難民高等弁務官を退任されていた緒方貞子さんの講演会がワシントンDCであって、彼女自身にもとても興味があったので聴講しに行きました。そこで『人間の安全保障』という言葉を初めて耳にしたんです。それまでの開発援助では、やはり医療は医療、経済は経済とセクターごとにバラバラに活動することが多かったのです。でも人間の安全保障という概念では、人間の尊厳や生活、自由を脅かす様々な危機から守ろうとするのであれば、セクターごとの個別プログラムだけに資金をつぎ込むのではなく、人々の自立を促す包括的な援助活動を多くした方がより平和と自由に繋がるではとも提言しているんですね。私がやりたかったことはその『人間の安全保障』という言葉で表せるんだと知ったんです。そこで講演会に同行していたスタッフに声をかけた結果、その場で委員会報告書の和訳のお話を頂けたんです。」

委員会を運営する事務局に正式に短期採用されることになり、いよいよワシントンDCから国連本部のあるNYに移住することになった。この時期にはのちに、夫でありビジネスパートナーになる後藤芳輝さんとも出会っている。

「ビザの書き換えにカナダのモントリオールに行ったんですけど、その日だけたまたま領事館のプリンターが壊れてしまい、一晩ビザの交付が延期されたんです。待合室でたまたま知り合った日本人が後藤で、せっかくだからとご飯を一緒に食べたりして仲良くなりました。同郷だし、それぞれ自営業の家に生まれ育ったという環境も似ていて、とてもリラックスした空気が心地よかったんです。彼はいい意味で他人に影響されずに自分のペースで生きている人で、そういう部分もウマがあったというか。気楽だったんです。その後NYに移ってからも会うようになり、結婚することになりました。」

国連での仕事は、委員会の会議の手配や必要とあらば警護も兼ねてジャズバーへ同行したり、新規ウェブサイトの立ち上げなど様々な任務を渡されてとても充実していた。しかし国連の人事はかなり複雑怪奇で、短期採用の更新に次ぐ更新を重ねているだけで、正式な長期雇用はなかなか望めない。このまま続けていても生活や仕事の保証はないし、ずっと希望していたフィールドでの仕事に応募しようと思ってはいても、新婚の後藤さんと離れて生活することは考えられなかった。

「誰かの生活が良くなっていくのを見届けたいと思うからこそ国連で働こうと思ったのに、NYの本部ビルの中にいるだけでは全く見えてこないというジレンマも感じていました。報告書でプロジェクトの状況を知ることはできても、自分がいたい場所は本当にここなのか?と。私にそのような仕事を掴み取れるだけの能力もないだけなのかもしれないし、とても大きな組織ですから、もうそれはもうどうしようもないんですけれどね。」

人事制度に振り回され、度重なる契約更新にも疲れ、人間の安全保障諮問委員会の事務所を辞めようと上司に相談したところ、それなら別の新規事務所の仕事を手伝って欲しいと頼まれ、一人で国連中央緊急対応基金事務所を立ち上げたりもした。しかし、妻として後藤さんをしっかり支えたい、子どもも欲しい、そして誰かを幸せな気持ちにできることをもっと実感できる仕事がしたいと思うようになり、ついに国連を辞める決意をする。

「緒方さんにご報告に伺ったところ、『女性はね、男性と違って思い通りに人生が進まないことが多いのよ。結婚して、子育てして、そのあとやっとホッとできると思ったら今度は介護しなきゃいけなかったり。焦らずにその時々でやるべきことに真剣に取り組んでいれば、社会で果たすべき役割はいつかきっと見えてくるから、それまでは与えられた役割を全うしなさい。』とおっしゃられました。今でもこの時のことは鮮明に覚えていますし、一生忘れないと思います。この言葉を心に留めておけば、何があっても耐えていける気がします。」

国連をやめてママになる

国際関係の仕事でバリバリ働いて、世界の人を助けるんだ、と心に誓って渡米した由華さんは、その後、仕事を離れ、稀有な経験と知見を胸に、新しい命とともにニューヨークでの子育て生活に突入する。しかし3年後、次女の妊娠を機に、約10年ぶりで日本に戻ることになった。

2児の母になったこともあり、子育てと夫の事業(ニューヨーク州産ワインを専門に扱うインポーター GO-TO WINE)のサポートなど相変わらず八面六臂の忙しさだ。まだまだ手のかかる子どもたち、ワインインポーターのビジネス、気の休まる暇がないという。

とはいえ、エネルギーあふれる由華さん、それでも何かやってみようと思うことも多々あり、起業セミナーに行ってみたりもする。そこでプランとして提出したのが「ワインも呑めるおにぎり屋さん」だったのだが、夫の後藤さんはそれに批判的だったそうだ。

「それはお前の夢じゃないだろうっていうんですよ。子どもと俺に関わることから考えただけで、本当にお前がやりたいことじゃないだろうって。びっくりしました。まさか否定されるとは思ってもいなかったので。英語で日本のことを紹介したり、人と話したりする仕事がしたいんじゃないかって。もっとちゃんと自分のやりたいことを考えてみるべきだとも言われました。でも今の私の生活は、ほとんどが子どもと家庭と彼の事業で占められているんだから、他のことなんて考える余裕ないんです。子どもの通っていた幼稚園でやっている『おにぎり給食』からヒントをえて、昼間はおにぎりを売り、夜はニューヨークワインを飲めるお店をやろうと思ったんですけどね。

夫は結婚するとき、由華の幸せは俺の責任みたいなことを言ってしまったからか(笑)、私が本当に自分のやりたいことをやっていない、というのをに気にしてくれています。よくそれを言われるけど、でも緒方さんの言葉通り、今やるべきことをできているのなら、それでいいんじゃないかと思えるようになってきました。そのうちやりたい仕事に出会える時もくるかもしれないけれど、今は子どもと彼の事業を支えて、軌道にのせることが仕事。楽しいこともたくさんありますしね。GO-TO WINEが取引させていただいているニューヨークのワイン生産者を訪ねたり、その方たちが日本に来た時に、ワインの納入先に連れて行って、一緒にごはんを食べたり、飲んだりしているときに幸せを感じますし。毎回思いますが、私は、食材の説明などをしつつ、人をもてなすのが楽しくてしょうがないんです。ですから、やりたいことはホスピタリティに関わる仕事なのだろうとは思います。」

仕事にまでつながるハイレベルなママ友コミュニティ

力のある人にはいずれ声がかかるものなのだろう。見ている人は見ているもので、最近、子どもが通う小学校のネットワークの中から仕事の誘いがあったのだそうだ。しかもかつてのキャリアにつながる得意なジャンルだ。

「短期契約なんですけど、とある有名ブランドのVIP顧客のための新製品披露イベントの仕事。宿やエア、アクティビティの手配などですけれど、海外とのやり取りとか、VIP相手のコーディネートは好きだし、得意なので、楽しいですね。仕事のボスも、一緒にこの仕事をしているのも、全員がバイリンガルママ。彼女たちすごいんですよ。子育ての間の時間、ランチや子どもたちが寝静まった深夜10時からネットミーティングで、物事が超高速でバンバン決めてしまうんです。時間の使い方が上手なんですよね。こんなスーパースキルなママたちがいるなんて、知らなかった。フォローも完璧です、誰かが子どものことや別の仕事で対応ができないとなると、すぐフォローしてくれる。もうなんて心強いんだろうと、今後のこのチームには期待が高まりますね。

今、それとは別にソムリエの方にワイン関連の英語を教えたりもしています。人にものを教えるのは無理だと思っていましたが、案外いけるかもしれないって。よく知っていることなら、人に教えられるものですね。ワインに関する用語や、接客英語などを教えるのは楽しいし、こういう方向性もあるかなと、最近考えています。

今まで何をやっても満足できるところまで到達していないのが、ちょっと問題だと思っています。私の母は、家業を支えながら、母として妻として嫁として、家族や周りの人のために文句ひとつ言わずに確実に仕事をこなしていたんです。自分は母のようにはできない。ただこれもしょうがない現実なんだと、最近少しずつ受け入れられるようになってきました。だって母は母、私は私だから。だた、娘たちは私の背中を見て育っているんですから、母親としても社会人としても、できる限りきちんと生きていきたいという理想はもっています。本当の私は一日何もしないでパジャマでゴロゴロして本を読んでいたいんですが(笑)家庭と仕事の間でバランスをとりながら、少しずつ前に進んでいきたいなと思います。」

(テキスト&写真 タコショウカイ モトカワマリコ)